「日常」という名前のカフェ
わたしは1995年、阪神淡路大震災の年に、製菓の専門学校に通うために長野から上京しました。当時はまだ「パティシエ」という言葉は一般的ではなく、製菓学校で初めて「パティシエ」という言葉を教わったとき、あまりにもしっくりこなくてイントネーションが全然覚えられなかったことを覚えています。
わたしは「パティシエ」になりたいと思ったことはただの一度もなく、憧れたものは今でもずっと「ケーキ屋さん」です。職人ではなくて、お店屋さんになりたかったんです。
専門学校を卒業後、ケーキ屋で4年働き、2000年頃に東京で起こったカフェブームに大きく影響を受けてカフェで働くようになりました。
これは、わたしがまだ「パスタ」を「イタリア料理」だとちゃんと理解していなかったころの話です。
2002年(平成14年)の秋、下北沢にあったフランス語で「日常」という名前のカフェで働き始めます。その店の、通りの向かいの二階のジャズ喫茶で由賀さんが働いていて、「向かいのカフェ、スタッフ募集してるよ」と教えてもらったのがきっかけでした。
そのカフェで、わたしは文化と出会いました。本棚にはアメリカ文学、BGMはスタンダードジャズ、店内にはウディ・アレンのポスターが貼ってありました。ジャズが好きなマスターはネルドリップでコーヒーを淹れていました。シェフはイタリアン出身でした。
わたしがこの店に入ったのは、このカフェが2号店を出すタイミングで、今のシェフがそちらの店舗に行ってしまうので、シェフの代わりに厨房を切り盛りする人、という、今思うとずいぶん重大な仕事をするスタッフとして採用されました。
シェフから引き継ぎをする期間は、はっきりとは覚えていませんが1ヶ月はなかったように思います。
シェフと一緒にオープン前に買い出しにまわります。買い出しに行く場所は、駅前のピーコック、南口のダイエー、カルディ、踏切手前の石井青果。肉屋は名前忘れちゃったな。
初めて一緒に買い出しに行った日、シェフから「まかない、おまえ何食べたい?」と聞かれ、理由は全く思い出せませんが「砂肝」と答え、その日のまかないでシェフが砂肝のパスタをつくってくれました。砂肝とピーマンのスパゲティーニ。
カフェの外の階段の踊り場で、階段に腰掛けながら短い時間で食べた砂肝のパスタ。今でも思い出せる、ほんとうにおいしくて、感動して、自分にこの人の後釜が務まるわけがないと、戦慄した味。11月だったのに、顔が紅潮していて外階段でも全然寒くありませんでした。
砂肝をパスタに使うなんて思いもよらなかったし、それにピーマンを合わせるとこんなにおいしいのかという驚き。
シェフに、「パスタの食材の組み合わせって、どういうふうに考えるんですか」と聞くと、
「鍋や煮物を思い浮かべればいい。肉か魚を入れて、その出汁で食ったらうまそうな野菜を入れろ」と教えてくれました。
「じゃあ、ブリと大根とかっすかね?」と聞くと「ブリは難しいから最初はやめろ」と言われました。
カフェの2号店はワインバーで、そこがオープンしてからは、わたしは1号店の営業が終わったあとにシェフの元へ行き、引き続き教えを乞いました。そこで、オーソドックスなイタリア料理、カルボナーラを食べます。
今まで食べてきたカルボナーラとはあきらかに別の食べ物で、どうしてこういう味になるのかがまったくわからなかった。今まではカルボナーラは一人前食べきるのが苦痛に感じるぐらい退屈な料理だと思っていたのに、うますぎて一瞬で食べ終わってしまいました。作り方を教えてもらったけれど、なんとなく「自分にはまだ早い」と感じてしばらくつくることができなかったことを覚えています。
先日の「喫茶アアニコ」でつくったオムライスはその「日常」という名前のカフェの名物メニューで、そのレシピをつくったのはシェフです。20年以上ぶりにつくってみて、あらためて料理としての完成度の高さに感嘆させられました。オムライスという料理をイタリア料理に着地させる手つき、ハーブやビネガーの選び方。
わたしはカフェ「日常」を2年で辞めて、映画館やトラットリア、寿司屋など仕事を転々としました。あるときシェフに「ふらふらしてるんなら手伝いに来い」と呼び戻され、シェフのワインバーで働きます。そこで今度ははっきりと意識して「イタリア料理」を教えてもらいます。レシピを教えてもらうのではなく、「季節の日本の食材をイタリア料理に着地させるための考え方」とでも言うべき、「設計図の書き方」を教えていただきました。そして、その料理とワインとのつなげ方。シェフの元で2年働きました。そしてニコラをオープンします。
カフェ「日常」は、今はもうありません。
ニコラをオープンする前、マスターに挨拶に行きました。ちょうど「日常」は下北沢から初台へ移転をするということで、店の規模を少し小さくするから家具が余る、よかったら使っていいよ、とマスターがおっしゃってくれて、ありがたく譲り受けました。2011年、3月のことです。
ニコラのカウンターの椅子と、白いテーブル、丸テーブル。これはかつて、カフェ「日常」で使われていた家具です。
四半世紀、下北沢と三軒茶屋で、様々なお客さんが通り過ぎていった家具です。
この家具たちが、このあとまたどこかへ行くことがあったとして、思い出は継承されていくのでしょうか。
なんだか急に思い出してしまい、忘れないように書き残しておきたくて久しぶりに雑文を書いてしまいました。
読んでくださりありがとうございました。
2025/02/12 01:32 | Category:nicolas