愛をとりもどせ

nicolasは5月1日で10周年です。
支えてくれたお客さんには、感謝しかありません。本当にありがとうございます。
東日本大震災の直後にお店はオープンしました。今はコロナ禍の真っ只中です。その間に挟まれた10年です。世の中の価値観は大きく変わり、私たちとお客さんは一緒に10年歳をとりました。この1年は、歳をとりそこなってしまったような1年でしたが、大々的にグランドフィナーレを迎えて燃え尽きてしまうことのほうが怖かったので、前向きに捉えようと思います。映画と違って、いちばんいいところまで来てもエンドロールは流れてくれないので、それほどドラマティックではない日常がまだまだこの先も続きます。
なにか言いたいことがたくさんあったような気がしますが、ほとんどのことは忘れてしまいました。田舎から出てきて、コネもカネもない凡庸な人間が、東京で10年お店を続けられたっていうのは、ほんとによくやったな、と思います。よくやったよね。

私にとってこの10年は、言葉を諦めた10年でした。
言葉がずっと好きでした。

お店を始めるとき、知人の居酒屋の店長から「これからの時代はなんでもいいからひとつ、SNSやったほうがいいよ」と教えられ、先人の知恵には素直に従いTwitterを始めました。これでお店の意思を誤解なくお客さんに伝えられる、当時は本心からそう思っていました。実際のところはそんなことは全くなくて、こちらが意図しない情報の渦に飲み込まれ、個人のアカウントひとつでは全くコントロールできない流れに蹂躙され続けてきました。写真とデフォルメされた言葉で、お店は切り取られていきました。
わかってほしい、と、わかるわけないか、と、わかられてたまるか、との間をずっと行き来していたように思います。ここ数年は、お店に来たお客さんがメニューも見ない。手元のスマートフォンをこちらに向けて、そこに写った写真を指差し「これはどれですか?」「いや、桃は夏の果物なので今はないです」みたいなやりとりが本当に増えました。それに抗い続けた10年。
文化が大切だ、という人たちはサブスクのノルマをこなすのに大忙しで、文化の奴隷になっているし、SNSでは教養のある人たちが言葉を研ぎ澄まし、その切れ味の鋭い言葉でどんどん世界を切断し続けています。え、それ以上まだ分けられるの?ってぐらい、因数分解を続けています。その言葉は、私の周りにいる人たちには全く届かない。私は、私の目の前で這いつくばっている生身の人間1人救うことすらできずに、なんて言葉をかけてよいのかわからず、右往左往したり、言いかけた言葉を飲み込んだりしています。
諦めたたくさんの言葉は、それがたくさんだったのかどうかさえ、今はわからなくなってしまいました。かつて言葉だったものたち。

今年のあたま、仙台に住む知人の音楽家から寒中見舞いが届きました。そこには手書きで、うねるような筆跡で、彼の言葉が記されていました。
コロナ禍、疎遠だった友人の来店。顔を見ただけで涙が出ました。
電子化される以前のものがそこにありました。食べ物も飲み物も、まだ、電子化されていません。こんな当たり前のことを忘れていました。

世界中に届かなくていいし、世界中の人とつながらなくていい。今はもう一度、言葉を好きになってみようと思っています。生身の言葉のことを、目の前の生身のあなたのための言葉を、取り戻そうと思います。言葉にならなかった言葉が表情に表れているところを見逃さないように。

その前に、まずは夜を取り戻さないといけません。夜にもいろいろな夜があります。私たちの夜は、観劇が終わって外に出たらもうすっかり暗くて、まるでお芝居が続いているような現実で、余韻がそのまま続いていくような夜です。酒と煙草と音楽と人々。不謹慎と色気。そんな夜を取り戻すのは、もうしばらく先になりそうです。

nicolasで待ってます。
YOUはSHOCK
IRASSYAI
邪魔するやつは包丁ひとつでダウンさ。