一人の男が飛行機から飛び降りる

バリー・ユアグロー『一人の男が飛行機から飛び降りる』を買ったのは、1996年、私はまだ19歳で、製菓の専門学校に通っていた。
学校が夏休みになり、東京から田舎へ帰省して、退屈していたんだと思う。実家で、普段はテレビ欄しか見ない新聞を読んでいて、この本の書評が載っていたのを読んだ。その書評を誰が書いていたのか、なにが書いてあったのかは忘れてしまったけれど、本のタイトルに惹きつけられて、街の大型書店にこの本を買いに行ったことは覚えている。とにかく暇だったんだと思う。
書店でこの本を買おうとして、いちばん驚いたのは、この本が2200円もすることだった。そんな本を自分の意志で買ったことは、このときまで一度もなかった。本は文庫でしか買ったことがなかった。
製菓学校や調理師学校に通うほとんどの人が思うことだと思うのだけど、「いつかは自分のお店ができたらいいな」と思ってそういう学校に通う。私もそうだった。そんな人の、ちょっと贅沢な品を買うときの自分への言い訳に「いつか自分でお店をやったときに、お店にこれを置こう」というのがある。私はそれを発動させて、『一人の男が飛行機から飛び降りる』を買った。そんな思いをして買ったくせに、しばらくはパラパラめくって眺めるだけで、ちゃんと読んでいなかった。夏休みが終わって、暇が終わったからだと思う。

2002年頃、下北沢にあったカフェ・オーディネールという店で働いていた。当時はカフェブームで、おしゃれなカフェがたくさんあって、オーディネールはそんなお店のひとつだった。オーディネールには本がたくさんあった。ここで初めて、アメリカ文学というジャンルがあること、アメリカ文学をたくさん訳している柴田元幸さんという東大の先生がいることを知った。ほかにも、ウディ・アレンの映画、ジャズ、イタリア料理、とにかくいろいろなことをここで初めて知った。この頃のカフェには、ほんとうにたくさんのことを教わった。無教養だった私は、カフェに文化を教わった。
オーディネールの本棚には、バリー・ユアグローの『セックスの哀しみ』があった。バリー・ユアグロー、あ、あの本の人だ。家に帰って、ほこりをかぶっていた『一人の男が飛行機から飛び降りる』をひっぱりだしたら、「柴田元幸【訳】」とあり、感動した。このときに、やっとちゃんとこの本を読んだ。「一人の男が飛行機から飛び降りる。」で始まる話が「スープの骨」というタイトルだったことを初めて知った。

2011年にnicolasがオープンした。本棚にたくさんの「いつか自分でお店をやったときに、お店にこれを置こう」を置いて。

2014年、ignition gallary熊谷さんによってイベントが企画され、柴田元幸さんがnicolasに来た。イベント終了後に、『一人の男が飛行機から飛び降りる』にサインを貰った。
その後、柴田さんとは、イベントで何度かご一緒させていただいたり、朗読のツアーに同行して一緒にごはんを食べたり、温泉に入ったり。

2020年、バリー・ユアグローの超短篇『旅のなごり』を包装紙にしたサンドイッチをnicolasで販売します。柴田元幸さんの手書きの翻訳原稿です。とても不思議な気持ちです。今お店はとても暇で、椅子に座って本を読んでいるとときどき常連がやってきて、ちょっとお喋りして、今日も暇だったね、と店を閉める。19歳のなにもしらない若者が憧れた「いつかやりたい喫茶店」像そのものなんだけど。ユアグローの短篇的だな、とも思います。
包装紙はすごくたくさんあります。なので、それなりに長い期間販売すると思います。売り切れたりしませんので、お時間があるときに、三軒茶屋までくる用事があるついでに、ぜひ買いにきてください。とてもいい短篇です。