ひんしゅくを買う。

高橋源一郎・山田詠美「顰蹙(ひんしゅく)文学カフェ」を読む。デビュー時に世の顰蹙を買ったお二人が、世の顰蹙を買った作家を招いて、もう一貫して「顰蹙を買わないような作家はダメだ!」という流れ。

今の世の中、こういったいい意味での顰蹙を買うのって難しい。非難はいくらでも浴びますが。
樋口毅宏の「さらば 雑司ヶ谷」を読んだときに「あ、阿部和重だ」と思ったのですが、阿部和重が「アメリカの夜」や「インディヴィジュアル・プロジェクション」を書いた10年前とは時代が違う。果たして今の世の中で、樋口毅宏が顰蹙を買うことができるのかどうか、少し不安になりました。園子温の「冷たい熱帯魚」を観たときと同じような不安。これで顰蹙買えなかったらもうお手上げ、みたいな感じ。

高橋源一郎が言う、
「もうずっと前から『文学』なんかどこにもなくて、ないのに、『文学』『文学』とか言ってるとか思われて、『あんた、終わってるよ』っていう視線を浴びてるのに気づいてないのかも、って思わない?」
の、文学って、文学だけじゃなくて、音楽だって映画だって、それこそ食だって一緒。ネットがあってコンビニがあれば、誰ももう文学なんて読まないし、ライブハウスや劇場映画館にも足を運ばないし、外食だってしないし酒も飲まない。
そんな現状を認識した上で「上等だよ!オレが文学だよ!」と言い切る姿に共感します。リリーさんと澤口シェフの「架空の料理空想の食卓」で「飯を食いに行くというより、オヤジの無理を見に行くという感じ」とリリーさんが言ってるのと同じ感覚。

nicolasも「上等だよ!」なんてそれこそ上等なことが言えるように、一歩ずつ一歩ずつそんな顰蹙を買っていければいいな、などと思います。
あ、非難はしないでください。打たれ弱いんで。