食にまつわる考察と、そこからの解放
食材が育てられ料理人の手に渡るまでの、そこの過程に潜る人がいて、その人は大地、プリミティブ、そういったものを提示する。あるいは食材が料理人からお客さんの前に運ばれるまでの過程に潜る人がいて、その人は伝統に新しい技術を加えていく。神様の自然と、人の文化。
レシピをつくるまでの過程、それは文学的な思考と、数学的な設計図の作成。レシピを具現化する過程、それはスポーツのような反復による上達と、宗教的な敬虔さと、科学実験を併せ持ったもの。どこかに軸足を決めて、ひとつの過程に深く潜ってしまうと、他の部分が見えなくなってしまう。どれひとつ欠かすことの出来ない過程のような気がしている。
「うまい」にどんどん興味がなくなっていく。なぜなら、きわめて個人的な体験から構築された味覚というものは比べようがなく、100m走のタイムのような絶対的優勝者を出せない。どの「うまい」も、想像力で物語を補えば、うまい。優劣はない。想像力の欠如からくる「うまくない」もあるし、思考停止による「(何を食っても)うまい」もある。メディアで共有された物語もあるし、どこまでも個人的な物語もある。「うまい」は、言葉に、思考に、頼りすぎている。「きれい」に至っては、言葉と思考を放棄しすぎている。
とある本に書かれていた、
「男性の身体は透明で、日常的に身体をほとんど意識していない」
という言葉のせいにもしたくなるほど、身体性が足りないと感じてくる。伝統というある種の絶対的正義と、見映えのいい小手先から逃れようとしたときに、身体性のなさを突きつけられる。十何年もやってりゃ誰でもそれなりに上達はする。知識も増えていく。でもそういうことではない。上達して知識が増えていくということ自体が、食の本質から遠ざかる行為のように感じてしまうことがある。
食の本質は身体性だと、どこかで信じているのかもしれない。
情報ではないものを受け取る器、身体性。
もしかすると、「食べる」ということに、そこまで強い思いがなくなったのかもしれない。何をつくるか、何を食べるか、というのは、今の自分にとっては建前なのかもしれない。ならば本音はなにかと考えると、「食べる」ということを通しての、人との対話(それにはもちろん、一言も言葉を交わさない、なんなら一度も目も合わない、無言の交わりも含まれる)、に、惹かれている。
さて、今日は寒いし、蕎麦が食べたいから蕎麦を食べにいこう。
もう蕎麦心になってしまったから、今日は絶対に蕎麦。