プロフェッショナルとは。

料理のプロフェッショナルであることをやめるつもりはない。
だけど、料理の専門家になってはいけない気がしている。
矛盾してるようだけど。

専門家、プロフェッショナルは、敬意を払われる。
素晴らしい、と憧れられる。
でも、専門家、プロフェッショナルだけが、
そんなに素晴らしいわけじゃない。

どこかの料理人が言う。
「最近の客は本物を知らない。ファストフードばっか食ってんだろね」
どこかの編集者が言う。
「芸能人が書いた本しか売れないよ。ちゃんとした小説は売れないね」
どこかの映画通が言う。
「みんな普段、アニメしか見てないんじゃない?いい映画いっぱいあるのに」

どこかの料理人は、芸能人の書いた本すら読んでないかもしれない。
どこかの編集者は、アニメすら見てないかもしれない。
どこかの映画通は、ファストフードばっか食ってんじゃないのかな。
なにかの専門家は、最も他のジャンルをないがしろにしている人、
になっちゃっているのかもしれない。

僕もそうだけど、みんな時間もお金もないし、
時間とお金がどんなにあっても、すべてを網羅するのは無理だ。
すべての人は、なにかをないがしろにしている。
自分が、なにかをないがしろにしている人だと知ることは大事だと思う。

もし、イタリア人の寿司職人アントニオ(仮名)がいたとして、
アントニオの握った寿司を食べたいと思う人はどのくらいいるんだろう。
きっと彼はプロフェッショナル、職人を目指し、
たくさんのことをないがしろにして、日々精進しているだろう。
それでも、彼の握った寿司を食べたいと思う人は少ない気がする。
彼にどんなに技術があっても。

でも、もしアントニオが、
「ボクは、オヅ・ヤスジロウの映画が好きです。
 ラクゴも好きです。
 それで、スシを勉強しています」
と言うやつだったら、僕は、彼の寿司を食べてみたい。
技術だけでなくて、江戸の粋みたいなものも、
きっと彼は愛しているだろうから。

もちろん、技術の鍛錬を怠らないという前提で、
文化そのものに興味をもっていることが、とても大切な気がする。
そんなイタリア人がいるのか知らないけど、逆の立場の日本人はいる。
たくさんいる。

僕はお店で料理を作っているけど、
いい料理だけを作りたいわけではなくて、いいお店を作りたいのだし、
そのお店の業態はカフェだ。
カフェにはBGMとしての音楽が鳴っているし、
コーヒーを飲むときに読まれる小説だってある。
(アアルトコーヒーの庄野さんが、そんな本を出してますね)

だからきっと、カフェのプロフェッショナルは、
なにかの専門家になっちゃいけないんだと思っています。
でも、最初の繰り返しになりますが、
料理のプロフェッショナルであることをやめるつもりはないし、
だけど、料理の専門家にならないようにしたいと思っています。
敬意は払われないかもしれないし、
素晴らしい、と憧れられないかもしれないけど。